常福寺経蔵及び山門
( じょうふくじきょうぞうおよびさんもん:zyoufukuzikyouzou oyobi sanmon )
常福寺は日野郡日南町の西部、多里宿の南端に位置する曹洞宗寺院で、山号を中宝山と号する。永禄2年(1559)、備後国徳雲寺の5世木中圭抱(?〜永禄12・1569)を開山として亀尾山城主・宮盛佑が創建し、その後火災にあったが、17世紀後半に宮氏の家臣である搆エ家が再興したという。近世を通じて、郡西部における曹洞宗の中心的役割を果たした。
多里は伯耆国と備後・備中・出雲の各国を結んだ分岐点にあたり、17世紀中頃から宿場町として栄え、市も開かれていた。多里の集落は南北に流れる日野川と並行した街道に沿って展開し、常福寺の境内はその街道筋の南端に位置する低い山裾に広がる。
このたび答申された2件のうち経蔵には「貫花蔵(かんけぞう)」の扁額(へんがく)が掲げられ、棟札により常福寺10世台翁和尚が、日野郡の大庄屋・古都源八の外護を得て、郡内や出雲横田等周辺地域から浄財を募り、元文元年(1736)に宇治萬福寺から購入した鉄眼版一切経(てつげんばんいっさいきょう)を納めるため、寛保3年(1743)備前大工・戸川半兵衛によって建てられたことがわかる。
この経蔵は、花崗岩の切石二段積みの基礎上に建てた約5.2メートル四方の土蔵造で、白漆喰塗の壁に、腰に六角形の平瓦を張った海鼠壁とする。屋根は頂部に露盤、宝珠を据えた宝形造唐破風向拝付で、元々はこけら葺きであったものが、昭和48年の修理の際に銅板で仮葺きされた。内部は間仕切りのない畳敷きの一室とし、上部に彩色を施した須弥壇の両側には、元文元年、寛保3年の棟札をかける。天井は格天井とし、数千点にわたる鉄眼版一切経が納められた引出棚が両側面に造り付けられている。
境内入口となる石段の上に建つ山門は、勅使門であったと伝わるものである。正面には山号「中寶山」の扁額が掲げられる。建築年代は不明であるが、彫刻の様式から18世紀前期の建築であると考えられる。
常福寺経蔵は由緒も明らかで、経蔵内に残る一切経とともに当初の形態を良く伝えており、県内に経蔵の類例が少ないことからも貴重である。また、山門は経蔵とあわせて境内の景観を形成する上で重要である。
文化財の種別 |
有形文化財
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区分 |
指定
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指定種別 |
県指定保護文化財
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分類 |
県指定の建造物
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所在地 |
日野郡日南町多里 |
指定年月日 |
平成26年4月15日 |
所有者等 |
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参考文献 |
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参考リンク |
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問合せ先 |
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備考 |
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