鳥取藩台場跡(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)
( とっとりはんだいばあと ゆらだいばあと さかいだいばあと よどえだいばあと はしづだいばあと うらどめだいばあと あかさきだいばあと:tottorihandaibaato )
江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所が残る。農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構である。
由良台場跡は、高島秋帆に西洋砲術を学んだ武信潤太郎を総指揮者として、伯耆5台場のうち最も早く着手され、文久4年に完成した。平面形が正八角形を真横に二分した形で、東西125m、南北80m、土塁の高さ5m、総面積8,000平方メートルの遺構がほぼ完全に残っている。鳥取藩史によると、台場には近くの六尾反射炉で製造された60斤砲、24斤砲、15斤砲、5寸径砲各1門が配備されたという。
境台場は、中海に通じる境水道の入口に、松波宏元の設計に基づき文久4年に完成した。高さ約6m、幅約25mの土塁が3つの鈍角コーナーを持ちつつ、250連続している。台場には六尾反射炉で製造された18斤砲2門、6斤砲1門、5寸径砲5門の計8門が配備され、農兵隊が守備にあたった。
淀江台場は淀江湊に面し、今津村大庄屋松波宏年が土地を提供、その子宏元が設計して文久3年11月に完成した。現在残るのは、高さ約4m、幅約24m、長さ約67mの土塁である。淀江台場には六尾反射炉で製造した18斤砲、6斤砲、5寸径砲各1門が配備され、松波が率いる松波農兵隊が守備した。
橋津台場は藩倉のある重要港湾橋津湊に長瀬大庄屋戸崎久右衛門以下が取締役となって築造したもので、由良台場と同じく左右対称のプランであったが、現在は両翼の土塁の一部と後方土塁、目隠し土塁が残っている。台場には六尾反射炉で製造された18斤砲、6斤砲、3斤砲、5寸径砲各1門の大砲が備えられていた。
浦富台場跡は藩執政職にあった鵜殿長道が浦富海岸に築いた因幡に現存する唯一の台場跡。東西約100mで、土塁の幅は10m前後、高さ3m前後を測り、前方土塁の平面形は2ヶ所に稜をもつ特異なもので、西洋式の城塞プランが取り入れられている。12斤砲、6斤砲、5寸径砲等4門の大砲が備えられていた。浦富お台場公園として整備されている。
赤崎台場跡は、菊港や藩倉の防備を目的に、武信佐五右衛門が責任者となって築造された。昭和30年代に道路建設に伴って埋立てられたが、平成25・26年度に発掘調査を行ったところ、3段構造の土塁が東西約50mにわたって残っていることが分かった。平面形はほかの鳥取藩台場と異なり、半円形である。台場には六尾反射炉で製造された大砲が当初3門、後に4門設置されたようである。
文化財の種別 |
記念物
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区分 |
指定
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指定種別 |
史跡
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分類 |
国指定の政治に関する遺跡
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所在地 |
東伯郡北栄町、境港市、米子市淀江町、東伯郡湯梨浜町、岩美郡岩美町、東伯郡琴浦町 |
指定年月日 |
昭和63年7月27日
追加指定・名称変更/平成10年12月8日
追加指定・名称変更/平成28年3月1日 |
所有者等 |
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参考文献 |
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参考リンク |
北栄町の文化財紹介ページ
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問合せ先 |
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備考 |
境台場、淀江台場、橋津台場、浦富台場の周辺地図:とっとりWebマップから「鳥取藩台場跡」で検索。 |