男神騎馬像 附脛当1組、鐙1掛、太刀2振、勝手権現御弓箱1箱
( だんしんきばぞう つけたりすねあてひとくみ、あぶみひとかけ、たちふたふり、かってごんげんおんゆみばこひとはこ:danshinkibazo tsuketari suneate hitokumi, abumi hitokake, tachi futafuri, Katte Gongen on-yumibako hitohako )
三仏寺には白馬に乗った男神の像が2点残されており、銘文から制作年と作者が判明する。
すなわち、先行する像は大永3年(1523)に京仏師の定泉が制作し、後の像は天文11年(1542)に大仏師を名のる帥というやはり京仏師が制作している。
ただし、大永像は保存状態が良好ではなく、今では両前腕と両脛以下を欠損した、褌(ふんどし)を着けた上半身裸形像となっている。一方、約20年後に制作された天文像は、立烏帽子を被り、筒袖、垂領(たりくび)の衣と袴を着して、正面を向き、両手を左右脇幅で胸下の高さに上げ、手綱を執る様子をあらわす。同像が乗る馬像の胎内墨書に「勝手大明神」とあることから、蔵王権現、子守権現とともに修験道で信仰された「三所権現」の一尊、勝手権現の像と特定できる。
大永像は尊名を特定する学術的手がかりを欠く(三仏寺では子守権現と伝承)。とはいえ、口髭(くちひげ)、顎鬚(あごひげ)をあらわし閉口する面貌は、天文像によく似ている。また天文像には馬像内の銘文に「サイコウ(再興)アル者也」とあることから、何らかの理由で勝手権現像が再度制作された、つまり大永像は当初の勝手権現像であった可能性も捨てきれず、今後の研究が俟たれるところである。
2匹の馬像は、下地がかなり露出するが、もとは白馬であった。耳を正面に向け、目を見開き、鼻孔を大きく膨らませ、軽く口を開ける。さらに右前脚を上げ、残る脚を前方に踏ん張り、手綱を引かれた様子をあらわす。
これら騎馬像は、男神の整った顔立ちや特徴をよくとらえた馬など、堅実で手慣れた表現をみせ、いかにも都の仏師を作者とするにふさわしい。実は、定泉と帥は、三仏寺所蔵の神像10躯(県保護文化財)のうちの3躯の作者でもある。定泉による永正17年(1520)の子守権現坐像1躯、帥による天文10年(1541)の男神坐像2躯―これらの作例からは、16世紀前半の三仏寺が京都の特定の仏師とある程度継続的に関係を持っていたという事実が浮かび上がる。これはいまだ未解明な室町期の京仏師の地方展開をうかがわせる貴重な事例とも言える。
附の武具・馬具類はいずれの像に奉納されたのか不明なものもあるが、太刀2振のうち片方には天文11年(1542)に勝手大明神に奉納するむねの銘があり、おそらく天文像のために制作されたものだろう。一方、脛当はその大きさから大永像のものと推定されるし、鐙も大永像とともに伝来しており、同像の附属品と考えられる。勝手権現御弓箱と墨書される木箱(天明4年=1784)には、弓1張、矢6本、刀3振、箙1腰が納められている。後世の奉納品もあるが、神像の性格を考える上で興味深い。
以上のように、2点の騎馬像は、作者と制作年代が分かる基準作であり、修験の古刹三仏寺の信仰の歴史のみならず、我が国の美術史にとっても大変貴重な文化財である。
| 文化財の種別 |
有形文化財
|
| 区分 |
指定
|
| 指定種別 |
県指定保護文化財
|
| 分類 |
県指定の彫刻
|
| 所在地 |
東伯郡三朝町三佛寺 |
| 指定年月日 |
令和6年1月19日 |
| 所有者等 |
|
| 参考文献 |
吉川聡・児島大輔「三徳山三佛寺所蔵木造勝手権現像について」『奈良文化財研究所紀要2014』 |
| 参考リンク |
|
| 問合せ先 |
|
| 備考 |
天文像:男神像 総高64.5p(現状では)、馬像 総高99.2p
大永像(勝手権現像):男神像 総高99.6p(烏帽子を含む)、馬像 総高111.8p
※像内墨書は参考文献(吉川・児島論文)に詳しく掲載されています。 |