津和野藩主亀井家墓所附亀井茲矩墓
( つわのはんしゅかめいけぼしょ つけたり かめいこれのりのはか:tsuwano hansyu kameike bosyo tuketari kamei korenori no haka )
亀井茲矩は、出雲の尼子氏の家臣の家に生まれ、尼子氏滅亡後、尼子勝久、山中幸盛(鹿之介)らと尼子再興のために織田・羽柴軍に加わり、毛利氏と戦った。茲矩は天正9年(1581年)の鳥取城攻めで戦功を挙げ鹿野城主となる。関ヶ原の戦いでは東軍に加わり、慶長5年(1600年)、鹿野藩3万8千石の近世大名となった。藩主として、農業 開発などに治績を残したほか、朱印船貿易を行ったことで知られる。茲矩は慶長17年(1612年)に鹿野城で病没し、鹿野藩領内に葬られた。2代藩主亀井政矩は元和3年(1617年)に石見津和野藩に移封され、鹿野藩は鳥取藩に吸収された。
茲矩の墓は、鳥取市気高町と鳥取市鹿野町の旧町境をなす丘陵上にある。墓所には、丘陵のふもとから山頂にかけて参道が造られており、山頂に墳墓が築かれている。墳墓は、鹿野の町を望むように造られており、石垣を巡らした基壇及び台座の上に、高さ308cmの大型の墓碑が立てられている。墓碑はオベリスク形をしており、大名の墓碑としては極めて珍しい形状である。墓碑の四面には、梵字が刻まれ、さらに東面には没年月日と「中山道月大居士(ちゅうざんどうげつだいこじ)」の戒名が刻まれている。
なお、津和野藩主亀井家墓所は津和野町の乙雄山(おとおやま)に所在し、初代政矩(まさのり)以降の歴代藩主墓など71基の墓石が残っている。
文化財の種別 |
記念物
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区分 |
指定
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指定種別 |
史跡
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分類 |
国指定の墳墓
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所在地 |
鳥取市気高町山宮字武蔵山650番ほか |
指定年月日 |
平成30年2月13日 |
所有者等 |
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参考文献 |
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参考リンク |
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問合せ先 |
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備考 |
亀井茲矩墓に係る地域 7,185.00u |